220514
朝ちゃんと7時に目が覚めた。
多田さんが私のイビキがひどかったとぼやく。すみませんでした、
しかしながら無論、私は悪気なぞあるわけもなくて、
それで、どうもひとの話を総合するとあまり深酒していないときは大丈夫のようで、ぐでんぐでんになってから寝るとおおイビキをかいているようだ。
それで8時に駐車場で待ち合わせ空港に 向かう。
テルホに傘を忘れてきました。
10時頃の便で多良間島へ
プロペラ機だ。
天気は悪く雲に覆われ海は見えない。
20分程で着く。
多良間空港ターミナルは当然小ぢんまりしていて石動駅より小さそうだ。
昨日は各地から勇造さんのファンの方がいらしたので今日はかなりの団体だ。
多良間島は人口千人余り、高齢化が進んでおってコナロにはピリピリしているという。
再度抗原検査をやった。
島にタクシーはなくレンタカーを三台借りてあって、私も運転士となる。
勇造さんのファンであるが、私のライヴにも来てくださる名古屋のMさん夫妻、みえさんと同乗した。
5キロ程で宿に着く。
とりあえず荷物を降ろして休む。
昼はんを食らいにレンタカーで繰り出す。
たねび食堂という店一択のようであまり集結するとよくないから時間をずらして。
ソーキそば一択。
それからレンタカー毎に別々に行動す。
主な景勝地や博物館なぞへ行ってみる。
八重山遠見台公園の展望台からは平な島だから360度海が見えた。
多良間村ふるさと民俗学習館が実にいい。
文化風俗はまるで異国である。
年表が好きでじっくり見させてもらう。
ひとは3500年前にはおったのは確実らしい。
済州島からあるいは済州島への漂流が割に多かったらしくて稲刈りの帰りに済州島に漂着す。
とか、琉球に紅花の進物を届けに行ったら済州島に漂着すなぞ書いてあって面白い。
多良間島にはいろんな所から漂着したひとがおったのだろう。
文献に残るもの以外にもあったに違いない。
きっとハイブリッド化されているだろう。
東日本大震災の時に流された船も漂着していて博物館の前に置いてあった。
江戸時代にはオランダ商船が漂着して乗組員全員長崎経由で帰還出来たこともあったという。
島のひとの写真がたくさんあるが島美人のひとなぞはいったいどこのあたりのひとかと思うような顔立ちである。
アイヌのひとのようにも見える。
それで大変に苦難が多かったようで、このような小さな島にも昔から役人がやって来て税を取り立てたのである。
米も育てたようだが、全部取られて仕舞いだったようだ。
ウエーンマと呼ばれる役人の現地妻なぞの悲劇もある。
ウエーンマの出現
と年表に記してあり
現地妻の「出現」という表現がおかしい。
それで昔から身体に良くないソテツを食らって来たようだ。
米が初めて三食のうちの一食だけだが毎日食えるようになったのが昭和三十年代の半ばであるのには驚いた。
お醤油は大正にはいってから。
それまでは海水で味をつけるだけだったと記してあり驚愕す。
テレビは1967年にやっと入った。
年は覚えていないが、診療所だってフェリーだってだいぶあとからだ。
私の想像を超える離島っぷりで、これはここに来なければわからない。
地図ではすぐそこに石垣島があるのだが。
ことばも他の島とだいぶ違っていて発音からして特殊文字を使わねば表せないのである。
例えばイ°とかカ°とかリ°とか我々の見たことのない半濁点の付け方をしてある。
ネットで検索してもわからぬことだらすけの島だ。
空からしか見たことのない島に来られたのもおとうやおとうの里帰りを後押しした所沢のひとたちのお陰であってなんとも因果といふかこうしたことになろうとは、
つひ数年前までは見ず知らずの者同士であったのだ。
私は感嘆といふのか心がいっぱいになった。
本当にありがとうと云いたい。
ああ、説明すると
なんで私も来られたかといふと
私と勇造さんも行くなら里帰りしてやってもよいとおとうが云ったからなのだ。
それならばとライヴも。
歌をやっていたからこうしたことも起きたのだ。
私の聞いた限りでは多良間島を出たがったのはおかあさんであってふたりは子供の頃からの顔見知りであったそうだ。
おとうはそこまで出たいとは思っていなかったらしい。おかあさんは何としても出たいといい、強硬な姿勢だったといふ。
それで沖縄本島に行っておかあさんのお兄さんがクリーニング屋をやっていたのでそこで働かしてもらい。
隣に瀬長亀次郎さんの事務所があって随分仲良くなったといふ。
私はおとうのところに泊まると大体朝方までふたりで呑み、息子のかずちゃんに叱られているのだがこうした昔の話をたくさんしてくれる。
危険な闇稼業もいろいろやってきたそうで、実に面白く話してくれる。
それから大阪の大正に行ってそれで所沢に来る。
八百屋を初めなんと家は自分で建てたのだ。
八百屋は最初は行商だったとかいってなかったか。
苦労話やらおかあさんとの思い出とかエロい話やら悪さをした話、いろいろ織りまぜて聴いてきたのだが、私もたいがいぐでんぐでんだから、あんまり覚えてはいないのである。
ただものすごいバイタリティーで稀に見る面白い人生を歩んできたひとには間違いない。
私は自分のことばかり考えている方だがこうした面白いひとの自分史には実に興味があっておとうの話は楽しくてしょうがない。
じじいになっても未だセクハラなぞするし、いいひとといふのとはちょっと違うのだが。
やがて90になろうかといふひとが朝まで呑めるのだから、考えてみたら驚異的だ。
わたしなぞまだまだ、
ともかく私はおとうが大好きだ。
SMにより自分の呑みたい酒を買う。
一旦宿に戻る。
佐久間さん勇造さんと本日の会場、塩川集落センターへ。
謂わば公民館といふところだろう。
あまり使われていないのか、やや埃っぽい。
島民のひとはどうも来ないらしい。
仕方がないが。
SMでも子供がそばに来たら我々は内地のもだとすぐわかるのだろう、おかあさんがササッと遠ざけていった。
小学生は69人いるといふ。
生音だからリハは要らない。
皆が来るのを待って始めた。
多良間島で歌を歌えた。
私はややぐっと来た。
誰かが死んだらを歌ったらおかあさんが思い出された。
この島で産まれたのだなあ。
私は珍しくやや、胸がいっぱいになり声が震えそうになるのを堪えた。
おとうをみたら珍しく泣いていた。
勇造さんもやる。
勇造さんも70を越えているが生声でも実に力強い。
私もまだまだやれるなと思う。
勇造さんは実にいいひとだ。
私は2月に拾得で初めてお会いして気さくな方だとはわかっているのだが、このレジェンドとこうして一緒にツアーすることに実をいうとやや気おくれしていたのだ、
私の歌をちゃんと聴いてくださり、ハーモニカを吹いたりも。
佐久間さんはじめ勇造さんのがちのファンのひとたちが大半でそれも怖れていたが、みなさん私のこともすきになってくれたようだった。
最後にまた、今日もたらまのおばあを一緒にやらせてもらった。
感慨深い。
最後におかあさんの弟さんのクニさんも出てきて一族の挨拶。
実にいい。
撤収して
まだ呑みたいものが宿であるCOCOゲストハウスの食堂に集まってやる。
愉しくやっていたが、0時過ぎに私が小便から帰って来たらみな何やら急にいそいそと片付けを初めている。
聞けばオウナーが実は隣の部屋におったらしくうるさいと叱られたのだそうだ。
オウナーが隣におったとは知らなかった。
部屋に戻り即寝す。
多田さんが私のイビキがひどかったとぼやく。すみませんでした、
しかしながら無論、私は悪気なぞあるわけもなくて、
それで、どうもひとの話を総合するとあまり深酒していないときは大丈夫のようで、ぐでんぐでんになってから寝るとおおイビキをかいているようだ。
それで8時に駐車場で待ち合わせ空港に 向かう。
テルホに傘を忘れてきました。
10時頃の便で多良間島へ
プロペラ機だ。
天気は悪く雲に覆われ海は見えない。
20分程で着く。
多良間空港ターミナルは当然小ぢんまりしていて石動駅より小さそうだ。
昨日は各地から勇造さんのファンの方がいらしたので今日はかなりの団体だ。
多良間島は人口千人余り、高齢化が進んでおってコナロにはピリピリしているという。
再度抗原検査をやった。
島にタクシーはなくレンタカーを三台借りてあって、私も運転士となる。
勇造さんのファンであるが、私のライヴにも来てくださる名古屋のMさん夫妻、みえさんと同乗した。
5キロ程で宿に着く。
とりあえず荷物を降ろして休む。
昼はんを食らいにレンタカーで繰り出す。
たねび食堂という店一択のようであまり集結するとよくないから時間をずらして。
ソーキそば一択。
それからレンタカー毎に別々に行動す。
主な景勝地や博物館なぞへ行ってみる。
八重山遠見台公園の展望台からは平な島だから360度海が見えた。
多良間村ふるさと民俗学習館が実にいい。
文化風俗はまるで異国である。
年表が好きでじっくり見させてもらう。
ひとは3500年前にはおったのは確実らしい。
済州島からあるいは済州島への漂流が割に多かったらしくて稲刈りの帰りに済州島に漂着す。
とか、琉球に紅花の進物を届けに行ったら済州島に漂着すなぞ書いてあって面白い。
多良間島にはいろんな所から漂着したひとがおったのだろう。
文献に残るもの以外にもあったに違いない。
きっとハイブリッド化されているだろう。
東日本大震災の時に流された船も漂着していて博物館の前に置いてあった。
江戸時代にはオランダ商船が漂着して乗組員全員長崎経由で帰還出来たこともあったという。
島のひとの写真がたくさんあるが島美人のひとなぞはいったいどこのあたりのひとかと思うような顔立ちである。
アイヌのひとのようにも見える。
それで大変に苦難が多かったようで、このような小さな島にも昔から役人がやって来て税を取り立てたのである。
米も育てたようだが、全部取られて仕舞いだったようだ。
ウエーンマと呼ばれる役人の現地妻なぞの悲劇もある。
ウエーンマの出現
と年表に記してあり
現地妻の「出現」という表現がおかしい。
それで昔から身体に良くないソテツを食らって来たようだ。
米が初めて三食のうちの一食だけだが毎日食えるようになったのが昭和三十年代の半ばであるのには驚いた。
お醤油は大正にはいってから。
それまでは海水で味をつけるだけだったと記してあり驚愕す。
テレビは1967年にやっと入った。
年は覚えていないが、診療所だってフェリーだってだいぶあとからだ。
私の想像を超える離島っぷりで、これはここに来なければわからない。
地図ではすぐそこに石垣島があるのだが。
ことばも他の島とだいぶ違っていて発音からして特殊文字を使わねば表せないのである。
例えばイ°とかカ°とかリ°とか我々の見たことのない半濁点の付け方をしてある。
ネットで検索してもわからぬことだらすけの島だ。
空からしか見たことのない島に来られたのもおとうやおとうの里帰りを後押しした所沢のひとたちのお陰であってなんとも因果といふかこうしたことになろうとは、
つひ数年前までは見ず知らずの者同士であったのだ。
私は感嘆といふのか心がいっぱいになった。
本当にありがとうと云いたい。
ああ、説明すると
なんで私も来られたかといふと
私と勇造さんも行くなら里帰りしてやってもよいとおとうが云ったからなのだ。
それならばとライヴも。
歌をやっていたからこうしたことも起きたのだ。
私の聞いた限りでは多良間島を出たがったのはおかあさんであってふたりは子供の頃からの顔見知りであったそうだ。
おとうはそこまで出たいとは思っていなかったらしい。おかあさんは何としても出たいといい、強硬な姿勢だったといふ。
それで沖縄本島に行っておかあさんのお兄さんがクリーニング屋をやっていたのでそこで働かしてもらい。
隣に瀬長亀次郎さんの事務所があって随分仲良くなったといふ。
私はおとうのところに泊まると大体朝方までふたりで呑み、息子のかずちゃんに叱られているのだがこうした昔の話をたくさんしてくれる。
危険な闇稼業もいろいろやってきたそうで、実に面白く話してくれる。
それから大阪の大正に行ってそれで所沢に来る。
八百屋を初めなんと家は自分で建てたのだ。
八百屋は最初は行商だったとかいってなかったか。
苦労話やらおかあさんとの思い出とかエロい話やら悪さをした話、いろいろ織りまぜて聴いてきたのだが、私もたいがいぐでんぐでんだから、あんまり覚えてはいないのである。
ただものすごいバイタリティーで稀に見る面白い人生を歩んできたひとには間違いない。
私は自分のことばかり考えている方だがこうした面白いひとの自分史には実に興味があっておとうの話は楽しくてしょうがない。
じじいになっても未だセクハラなぞするし、いいひとといふのとはちょっと違うのだが。
やがて90になろうかといふひとが朝まで呑めるのだから、考えてみたら驚異的だ。
わたしなぞまだまだ、
ともかく私はおとうが大好きだ。
SMにより自分の呑みたい酒を買う。
一旦宿に戻る。
佐久間さん勇造さんと本日の会場、塩川集落センターへ。
謂わば公民館といふところだろう。
あまり使われていないのか、やや埃っぽい。
島民のひとはどうも来ないらしい。
仕方がないが。
SMでも子供がそばに来たら我々は内地のもだとすぐわかるのだろう、おかあさんがササッと遠ざけていった。
小学生は69人いるといふ。
生音だからリハは要らない。
皆が来るのを待って始めた。
多良間島で歌を歌えた。
私はややぐっと来た。
誰かが死んだらを歌ったらおかあさんが思い出された。
この島で産まれたのだなあ。
私は珍しくやや、胸がいっぱいになり声が震えそうになるのを堪えた。
おとうをみたら珍しく泣いていた。
勇造さんもやる。
勇造さんも70を越えているが生声でも実に力強い。
私もまだまだやれるなと思う。
勇造さんは実にいいひとだ。
私は2月に拾得で初めてお会いして気さくな方だとはわかっているのだが、このレジェンドとこうして一緒にツアーすることに実をいうとやや気おくれしていたのだ、
私の歌をちゃんと聴いてくださり、ハーモニカを吹いたりも。
佐久間さんはじめ勇造さんのがちのファンのひとたちが大半でそれも怖れていたが、みなさん私のこともすきになってくれたようだった。
最後にまた、今日もたらまのおばあを一緒にやらせてもらった。
感慨深い。
最後におかあさんの弟さんのクニさんも出てきて一族の挨拶。
実にいい。
撤収して
まだ呑みたいものが宿であるCOCOゲストハウスの食堂に集まってやる。
愉しくやっていたが、0時過ぎに私が小便から帰って来たらみな何やら急にいそいそと片付けを初めている。
聞けばオウナーが実は隣の部屋におったらしくうるさいと叱られたのだそうだ。
オウナーが隣におったとは知らなかった。
部屋に戻り即寝す。